世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

綻び

自分の家族は、きっと型にハマる事ない家族なんだなって小さい頃から思っていた。

だから、家族をテーマにしたドラマとか、そういうシーンが幾つかあるドラマを見ていると、恥ずかしいという感情を抱く事は決して無かったし、共感する事も無かった様に思える。

きっとそれは僕が『家族』を『他人』として見ていたから、そういう事を感じてしまっていたんだと思う。

 

幼稚園から小学校、中学校、高校と上がって、専門学校へと進学した後、就職をして今に至るまで、様々な場面があった訳だけれども、一つ一つを節目として考えるのであれば、どの場面でも一度『家族』に関して真剣に考えていた頃はあった様に思える。

幼稚園や小学校低学年は、振り返ってみて感じた事の方が多いけど、その場面場面で家族が距離を徐々に置き始めていった。

血の繋がりがあっても、成長していくとどこか素っ気ない態度を取る様になってしまって、気付いたら他人の振りをしている、そんな感じが広がっている。

勿論、血の繋がりが全くない父に対しては、もとより素っ気ない態度を取ってはいるが。

それは、自分から始まった事であろうと思う。

父と母の綻びが徐々に見え始めてきた頃、その頃から

「素っ気ない態度をココでも取っていいのかもしれない」

と察知して、もう相手の顔色を伺わなくたって良いんだと、何だか重荷を降ろした気分になって、すぅっと開放感に満ち溢れるというそんな気分になっていた。

それまでは、母親の顔色を伺って、偶に父の顔色を見たり見なかったり。それぞれの気持ちを探りまくる様な毎日もあった様に思える。言葉にしない時なんかは一番厄介で、気が重くなっていた。

でも綻びが見え始めた頃からは、一切合切興味を無くして、気にしない様に勤めてきた。そしたら、気付いた頃には父の方からフェードアウトしていって、気づいた頃にはそれが当たり前の風景となってしまっていた。母も気にはしていない。でも、集合写真は壁に貼ってある。忘れているのか、どうなのかは知らない。そこまで探る様な事でも無いように思えるし、壊れてしまう位なら聞かない方がマシだ。

あんなに会話していたのに、いつの日か、いや、そんないつの日かと誤魔化す事は出来ない。きっとあの日を境に家族は一変したし、それを気に父の本当の姿を見た様な気がする。

父は母に対して「いい加減病院へ行こう」と声掛けはしていた。でも悪化し続けている母を父は、無理矢理でも救急車を呼んで連れて行こうとはしなかった。自分もその時は高校生で、悪化し続ける母を見て母の意思を聞きながら救急車を呼ぼうか呼ばまいか迷い続けて、母の姿を見ているとこのままが良いんじゃないかという葛藤もありつつ、結局あの日を迎えてしまった。振り返れば、家族皆、母を蔑ろにしていたのは紛れもない事実である。

ある時から始まった綻びに気付いておきながら、対岸の火事の様に眺めてしまった挙句、母の容態悪化に早急な対応が出来ず狼狽える。何の為に勉強し、何の為に情報を得て、何の為に生きてきたのか。あの時の情けなさは今でも忘れられない。

『家族』が『家族』で在り続ける事なんて、そんなの誰にも分からない。いつ何時壊れるかもしれない、綻びだらけの集団に『在り続ける』未来などあるものなのか。最近はその綻びをモノともしない家族の在り方が具現化してきている。「愛に定義などない」。そう言わんばかりの在り方が示されてきている。

 

現在、世間での『家族』の在り方が一段と変わってきていて、例えば子供を持つという家庭の在り方も徐々に変わってきている。

父母(男女)の家庭ではなくて、父母(男男または女女)の家庭が徐々に増えてきている。

でも、この国でそれが当たり前になるという事は当面無いんだろうなって勝手に思っている。それは遠い未来の話かも知れないってどっかで感じてしまっている。これだけ他人との交流が身近になっていたとしても、この国ではそれを受け入れるのに相当な時間がかかるんだろうなって思っている。

「愛に定義はない」だなんて事を当たり前の様に綴ったけれども、結局の所「愛」とはなんなのか。深く考えれば考える程に分からなくなってきているのが現状で、きっとここまで真剣に考える人の方が少ないんじゃないかって思ってる。むしろ感じる事が重要なんだろうけど、感じた愛を育んで最後まで一緒にいられるケースの方がきっと少ない様な気がする。熟年離婚が多い中で、親の愛というのは果たしてきちんとした愛なのかどうか、非常に怪しい所が幾つかあるから信用出来ない部分が沢山ある。勿論、個人差は幾らでもあるから、一概に言えないのが「愛」の嫌な所でもある。

 

結局の所、「愛」が「家族」を育むという結論が分かっても、『家族の在り方』については知らない事が山程ある事に気付いた様な気がする。どの方向に向かうかとかそういう事ではなくて、「愛しあって育まれた家族」が今後どの様に在り続けて行くべきなのかという模範解答的な事は一向に見つからないという点において、知らない事が山の様にある訳です。

きっと模範解答的なことは幾つかある様な気もするけど、今の自分には見つからない様な、そんな気がしてならない訳です。

 

今、綻びが剥き出しになり続けている僕の家族は、修繕不可能かもしれないけど、「在り方」だけでも決めておきたいという節は感じておる訳です。

 

 

シロロン