世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

利己

他人の事を顧みない。即ち「利己的」な生き方を指すわけですが、ソーシャルネットワークの発達によって利己主義なコミュニティが形成されている様に思えてならない昨今。

それは今に始まった事では無いのかもしれないけれども、その考え方が更に強まったのが現代の社会そのものであろうと、最近考える様になってしまった。

勿論全員が該当するという事ではなく、昔と同じく極一部の人達に向けたメッセージなのであるが、その極一部という範囲が、「社会全体」から「地域全体」に縮小しつつあるという危機に直面していると言わざるを得ない。その背景にはソーシャルネットワークといったサービスの普及によるものである。分け隔てなく、そこのアカウントを取得する事で、様々な端末から自分の考えを発信できる優れもの。

そのサービスは「自分」を中心に現状を直視しつつ日々の行く末を認識できるというもの。そして実際にその場へ行かなくとも、小さく見えないコミュニティを形成し全ての人が共有できるというもの。物凄く便利で、使い方を誤らなければ作業効率が格段に上がるシステム。そのシステムを誰もが使える様に構築したのが「Twitter」や「LINE」、「Facebook」など。

これは、自分に必要な情報だけを共有して自身で設定をして運用できるシステム。だからこその「利己的」な「社会」がそこには形成されてしまう。それが形成される事で視野が狭くなり、何事も受け付けない厄介な存在が生まれてしまう。このシステムの急速な普及によって、今まで見ていた世界が大きく変わってしまった様に思える。それは今に始まった事では無く、随分と前の時に起こってしまっている、ならではの世界である。

噂話が過ぎると人はそれを正として動く一方で、それを偽として動くものも多少たりともいる訳です。そしてそれを最終的に当人から話を聞き出して答えを導き出す。これは一つの社会で起きる光景で、この仕組みが出来上がった頃というのはきっともって人類が集団的な生活をし始めてから起こった事ではないかと思う訳です。それがソーシャルネットワークの世界では、様々な人種と人間が混在する箱の中で繰り広げられていく。
先に上げた「噂話の社会」では、ある一定の限られた人間同士に繰り広げられる物語で、登場人物も少ない事が特徴であったりしますが、ソーシャルネットワークの場合は数多くの登場人物が可能性として挙げられていき、物語という括りも「日記」というものから「長編小説」という大きな括りに変化をしてしまう。様々な脚色が付けられて、当初の噂話から一夜にして壮大な物語へと変貌する。「夢物語」が後々で取り返しのつかない事態へと発展する。それは、自分の噂話が重箱の隅を楊枝でほじくる様な事態になっている訳ですから、それを解消するのに一生分の時間を費やす羽目になる訳です。いや、一生を懸けてもここまでの事象を正すという事は到底厳しいものであろうと思う訳です。

そんな状態が容易に想像できるシステムな訳ですから、自然と「利己的」に変わって行ってしまうのは自然な事なのでしょう。そうでもしないと「自己防衛」が成り立たない訳なんですから。

最初に挙げた「利己主義社会」について、もはやこれというのは人間である以上どうしようもない事なんじゃないかって結論付けてしまうのが本当に情けないなと思う訳です。正直な所、一定のルールを決めたとしても直ぐに沸いて出てきてしまう。そしてそれを無視する事で、一定のルールを掻い潜って新たな社会を形成していく。もはやイタチごっこの様なその光景は、溜息が吐き切れないほどに起こっている事なんだと痛感する訳です。
この利己主義の塊を情報収集手段の一つとして全世界が捉えつつある現状に危機を持たなくてはならない。それはこの塊をいよいよ優先順位第一位として運用した国が現れたとすれば、それは利己主義で固められた塊同士の争いが待ち構えているから。そしてそれは後世に「負の遺産」として引き継ぐ羽目になるという事。そうなれば世界も破滅の道を歩みざるを得なくなってしまう。

きっとこのシステムも「利他」を重点に、それを気軽に共有できるシステムとして運用を開始したんだろうけれども、人間が人間の本質を突き止めていない、不完全な状態で世に放ったのだから、「利己」の塊に変貌したとしてもしょうがないと言わざるを得ない訳です。

きっともってこの事は誰もがどこかで思っている事なんだろうなと、徒然なるままに認めた次第であります。


シロロン