世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

物語

時間なんて関係ない。一つの尺度として時間で決める事はあっても、大方物語に対して影響力を及ぼす、一つの存在としてあってはならないものだと思っている。それは物語は長さではなく質感が大部分を占めなくては意味がないと思っているから。

よく、一人ひとりの人生を「物語」に置き換える事はしばしばあるが、まさにその人の人生を「時間」という型に当てはめて話を進めてはいけないと感じる。時間よりも質感を最も大事とする訳で、その人の生き方を知る上でとても重要な事であると感じる。
時代背景や成長の過程を話す上で時間という概念は必要になってくるものの、それを主として考えるのは些か間違いであると断定したい。

ドラマでもそう、15分ものや20分もの、1時間や2時間ものとそれぞれの質感によって時間のスケールが異なっていく。

放送時間の枠からドラマの編成を進めるテレビ局が多くあると見受けられるが、それも大方間違いな様に思えてくる。あくまでもテレビ局の都合に合わせてドラマを編成する必要は無く、それぞれのドラマによって5分刻みで考えるのではなく、1分や20秒、39分という様な感じで端数分を含めた構成・編成を組んでもいいのではないかと、ドラマを見てきてずっと思っていた。

人の人生の様に、枠組みに捕らわれないドラマ。それこそが今を生きる世代においてかなりの共感を得られる様なそんな気がしてならない。

しかしまぁ、一定の秩序というものを守らなくてはならない立場も考慮すれば、それが全てという考え方も些か間違いに等しくなってしまうのだろうと思う。

でも、一つ言いたいのは長くやればいいという考え方はもう古くて、より一層の質感を高品質に持って行き、その上で時間が追い付いてくる構成が今のドラマに当てはまっていくのではないかとさえ思えてくる。

既に実行している所もありそうだけど、わかっていてもうまく生かし切れていない所が多数見受けられる様に思う。それは、未熟だからとかそういう事ではなくて、人生の様に経験が伴っていないから起こっている事象の様に思える。経験を積む為に人の人生を見る事で一気に積み上げる事も出来るし、ドラマを見て疑似体験から積み上げる人だっているであろう。そうやって経験を積む事で生まれる「物語」は時代が色褪せても「経験」として引き継がれていくのだろうと私は感じるのである。

物語+経験=人生。こんな適当な方程式的な事を書いてみたものの、こんな感じで薄ら薄らと感じている人もいれば、既にわかっている人もいるかもしれない。いずれにせよ、そういった事が大きく関わっているのだろうと私は感じたのである。

 

 

シロロン