世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

コミュニティ

今って目に見えないコミュニティが増殖していて、自分たちの知らない所でいろいろなコミュニティが形成されていって、所謂「文化」に似た現象が次々に起こっている訳ですよね。つまり、同じ人間なのに、その小さなコミュニティで人間が進化を遂げているのではないかと、ふと思ったんです。

もちろん、これには「退化」の方で当てはまる場合が多いかと思います。しかし、入る人間によってそこでは、そこの人達が知らなかった知識や発見が案外散りばめられていて、それを一つ一つ紡いでいく事で更なる発見を見出している場合もあります。それが多かれ少なかれ、早かれ遅かれ、一つの「文化」を「今」に形成している「コミュニティ」が人間を育んでいる事に他ならないとボクは実感しています。

現にボクというのは、よく育成ゲームなどで何十通りという育成方法がある中で一人で黙々と探す日々がありましたが、ふと周りを見渡すと同じゲームで黙々とやっている人が何人か居たんです。その人達と別に意気投合した訳では無いですが、同じゲームをやっているという共通点の下で「コミュニティ」を形成し、様々な育成方法を提案していった結果、新たな育成方法を見出し、結果成功へと導いたという事例がありました。

そう、これも一つの進化なんですよね。やってる事は一つのゲームの遊び方を探す事なんですが、人が集まってコミュニティを形成した事によって新たな発見を見出すという行為は、一つの研究者と言っても過言ではないくらい、その中では大きな発見だったりします。たった数十人程度で分かち合う、小さな発見でも、一つのコミュニティで換算すれば割りかし大きな発見になっていると思うのです。

まぁ、これには個人差が流石にありますが、皆さんにも同様な実感は少なからずあったと思います。少しでも「あ、これいいな~」とか「これやってみようかな~」とか、とあるコミュニティの中で目の前で見ている物に対して、プラス思考が働いたならば、それはそこのコミュニティで流れた一種の「情報」に対して共感を得たのと同じ事になります。

「共感」とサラッと書きましたが、中々人から共感を得るのは難しい事だと思います。利害一致をした上で共感しないと「共感」とは言い難いです。良い所だけ共感しているようでは虫が良すぎる話です。そんな事は何も考えずにただ単に頷いているだけ。一辺倒の情報しかその人は見ていません。それよりも何が良くて悪いのかという観点で、少なからずそこで甲乙を付ける人こそが真の「共感」を得るという事になります。まぁ、こんなのは当たり前で、でも案外抜けてる人が多いのも現実だったりします。いつもではなく、ほんのちょっとした場面で。それこそ他愛のない話で、例えば甲乙を付ける場面なんだけど「面倒だから頷いている」だけとか、案外真剣な話なんだけど、「余計に首を突っ込むと反感を買いかねないから留める」とか。幾らでも場面としてはあると思います。

さぁ、話が若干「共感」にズレてしまいましたが、コミュニティを形成するにあたっては、「共感」は絶対的要素の一つ。何故かといえば、コミュニティには必ず創設者が居るので「その人の思い」を汲んで入るとか、コミュニティが長ければそこでの「歴史や考え」などに「共感」を得て入っていくという流れがあるからです。だからこそ外せない要素。そして、先方で記した通り「目に見えないコミュニティ」とは正しく「共感から繋がるコミュニティ」という事です。だからこそ「心」でもってそのコミュニティに入っていく。そしてそれは目に見えるコミュニティであっても「共感」する事でコミュニティに入っていくのだから、自然と「心」が動く事でコミュニティが形成され、新たな進化を遂げるという訳です。

今も昔も変わらず、「コミュニティ」の形成は「文化の育み」。形は変われど、「共感」という部分に於いては、何れも変わらない価値観なのだと、ダラダラ書いて行く内にふと思った訳であります。