世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

やりたい事

仕事の忙しさにかまけて、やりたい事が出来ないでいたけれど、五月の下旬になってようやく落ち着きを取り戻してきた。

ようやく自分のしたい事が出来るようになってきた。このやりたい事っていうのも、自身の気持ちの余裕があってこそ出来る事であって、その余裕が生まれないと中々したくても出来ない状況に陥る事は多々ある様に思う。

 

やっぱり仕事に支障が出てはいけないなと思うと、自分のしたい事を控えて身体を休める事を優先してしまう。そうなると少し無理をしようという事が出来なくなってしまうから、結果何もせずに終えてしまい朝を迎えてからは、仕事に行く準備を整えて身を捧げる事となる。

 

段々とその生活に順応していくと、したい事の在り方が変わってきて、いつの日か仕事を第一優先にして、その第一優先に差し支えがない「やりたい事」を探して、趣味嗜好が変わっていってしまう。大抵の人間はそんな感じで生きていって、いつの日か周りの人々が、入れ替わっている事に気づいていくのだろうと思うのです。

 

気づいた頃には、気の知れた仲間は居なくて、自分だけ独りぼっちになっているのだろうと。そして自分は何かしらの分野に身を埋めて一生を過ごしていくのだろうと。

気づかずに最後まで過ごす人が恐らく大半を占めるのでは無いのだろうか。

いや、気づいていても後戻りが出来ないから、きっと現状のままがベストだと決めつけて、一生を過ごして行くのがほとんどではなかろうか。

「一度きりの人生」。そんな言葉が現代では一人歩きをしているのではないか。

「現実」を重んじる現代社会で「一度きりの人生」は仕事の場においての比重が多いのではないだろうかと。「やりたい事」に対して本気で言えているのは本のひと握りで、実際にはそんなに甘くないのだろうと。

 

テレビドラマでも大体は「現実世界」を題材に、より現実世界に起こりうる要素を細かくピックアップして、「一度きりの人生」の大切さを訴えているものが多かったりしている。それをテーマにしていなくても、小さな要所要所で出てくるパターンが多かったりしている。

一方アニメの分野では、非現実世界における「一度きりの人生」を訴えているようにも思える。しかしながら、現実世界の忠実さも余すこと無く伝えて、僕ら人間に世界で生きる為の「手本」を指し示している様にも思える。

あくまでも個人的な見方ではあるが、昔と比べて現実世界と乖離したものが減りつつあるのは事実であろうと思っている。

 

周りの表現物が現実世界との差を縮めていけば、自分の「やりたい事」の範囲も狭まっていくのではないか。まぁ、たまにそんな恐怖を覚える事がある。

「やりたい事」=「夢」が徐々に乖離していき、「やりたい事」=「現実」がより身近な物になっていく。そうなっていくと人間の欲求はドンドンと縮まっていき、いつの日か「やりたい事」がこの世から消えていってしまうのではないか。人間が「やりたい事」へ情熱を燃やし、努力するという光景が、徐々に蒸発していく。そうなってしまっている現実にもう歯止めが効かないのではないだろうか。

 

自由に、便利になればなるほど、人間の「やりたい事」は消えていくようにしか思えない。

 

文明を高度にしていけばしていくほど、文明は崩壊していく。

 

そんな矛盾な世界の中を、今我々は生きているのかもしれない。

 

おかしな事かもしれないけれど、案外人間の文明はそんなものなのかもしれない。

 

いつの日かこの現代の文明も滅び行くものなのだろうと、

考えてしまう事が最近あるから怖いものです。

 

 

シロロン

コミュニティ

今って目に見えないコミュニティが増殖していて、自分たちの知らない所でいろいろなコミュニティが形成されていって、所謂「文化」に似た現象が次々に起こっている訳ですよね。つまり、同じ人間なのに、その小さなコミュニティで人間が進化を遂げているのではないかと、ふと思ったんです。

もちろん、これには「退化」の方で当てはまる場合が多いかと思います。しかし、入る人間によってそこでは、そこの人達が知らなかった知識や発見が案外散りばめられていて、それを一つ一つ紡いでいく事で更なる発見を見出している場合もあります。それが多かれ少なかれ、早かれ遅かれ、一つの「文化」を「今」に形成している「コミュニティ」が人間を育んでいる事に他ならないとボクは実感しています。

現にボクというのは、よく育成ゲームなどで何十通りという育成方法がある中で一人で黙々と探す日々がありましたが、ふと周りを見渡すと同じゲームで黙々とやっている人が何人か居たんです。その人達と別に意気投合した訳では無いですが、同じゲームをやっているという共通点の下で「コミュニティ」を形成し、様々な育成方法を提案していった結果、新たな育成方法を見出し、結果成功へと導いたという事例がありました。

そう、これも一つの進化なんですよね。やってる事は一つのゲームの遊び方を探す事なんですが、人が集まってコミュニティを形成した事によって新たな発見を見出すという行為は、一つの研究者と言っても過言ではないくらい、その中では大きな発見だったりします。たった数十人程度で分かち合う、小さな発見でも、一つのコミュニティで換算すれば割りかし大きな発見になっていると思うのです。

まぁ、これには個人差が流石にありますが、皆さんにも同様な実感は少なからずあったと思います。少しでも「あ、これいいな~」とか「これやってみようかな~」とか、とあるコミュニティの中で目の前で見ている物に対して、プラス思考が働いたならば、それはそこのコミュニティで流れた一種の「情報」に対して共感を得たのと同じ事になります。

「共感」とサラッと書きましたが、中々人から共感を得るのは難しい事だと思います。利害一致をした上で共感しないと「共感」とは言い難いです。良い所だけ共感しているようでは虫が良すぎる話です。そんな事は何も考えずにただ単に頷いているだけ。一辺倒の情報しかその人は見ていません。それよりも何が良くて悪いのかという観点で、少なからずそこで甲乙を付ける人こそが真の「共感」を得るという事になります。まぁ、こんなのは当たり前で、でも案外抜けてる人が多いのも現実だったりします。いつもではなく、ほんのちょっとした場面で。それこそ他愛のない話で、例えば甲乙を付ける場面なんだけど「面倒だから頷いている」だけとか、案外真剣な話なんだけど、「余計に首を突っ込むと反感を買いかねないから留める」とか。幾らでも場面としてはあると思います。

さぁ、話が若干「共感」にズレてしまいましたが、コミュニティを形成するにあたっては、「共感」は絶対的要素の一つ。何故かといえば、コミュニティには必ず創設者が居るので「その人の思い」を汲んで入るとか、コミュニティが長ければそこでの「歴史や考え」などに「共感」を得て入っていくという流れがあるからです。だからこそ外せない要素。そして、先方で記した通り「目に見えないコミュニティ」とは正しく「共感から繋がるコミュニティ」という事です。だからこそ「心」でもってそのコミュニティに入っていく。そしてそれは目に見えるコミュニティであっても「共感」する事でコミュニティに入っていくのだから、自然と「心」が動く事でコミュニティが形成され、新たな進化を遂げるという訳です。

今も昔も変わらず、「コミュニティ」の形成は「文化の育み」。形は変われど、「共感」という部分に於いては、何れも変わらない価値観なのだと、ダラダラ書いて行く内にふと思った訳であります。

物欲

買いたい物を買った。

それはどこにでもいるサラリーマンのちょっとした「贅沢」。

あ、プラスで好きな場所で散髪も済ませました。

 

買った物は一眼レフとレンズのセット。キャノン製の5年前に登場したカメラである。破格の値段で店頭に並び、そこから値引きをするまでに至った。値引き額は1万円。購入額は驚きの25万円。先に言った様に、一眼レフとレンズのセットなので、本体価格は15万円。一眼レフ本体の通常の価格は20万~30万がいい所なので、殆ど半額というお得価格だった訳です。いわゆる型落ち。

型落ちと言ってもまだ新商品は出ていないので、細かい機能や性能を気にしない限りでは、5年前の製品でもなんら問題はなく、Wi-Fi機能が搭載との事なのでスマホにも繋いで撮った写真を送ることだって出来る。勿論SDカードだって挿せる訳だから、データの保存はパソコン内で管理出来る訳です。スマホに繋げられれば、クラウドへの保存も効くわけです。

5年前だからと言って、決してそんじゅそこらの「型落ち」とは大違いな訳なんです。

やりたい事はそこまで多くない為、正直「一眼レフじゃなくても良かったのでは?」と指摘が入るかもしれませんが、一眼レフじゃないと表現できない「ぼかし」や「ピント」等を中心に自分の手で再現したい。そんな思いが6ヶ月前より沸々と自分の中で芽生え始めてきたのです。

「いつか買おう」。そう思って買う時期を逃しまくっていた中で、本日ふらっと寄って、ちょっと見て、パンフ貰って、説明少し聞いて、ちょっと遅い昼を済ませてっと思っていた所に、とある説明員がいい感じにスッと入ってきて、お話を丁寧にして下さった訳でございます。

お陰様で一眼レフのちょっとした知識をその方からご教授頂いた訳です。その兼ね合いもありつつ、本日購入へと踏み切った訳でございます。

本日…。もう日付が変わっていたので昨日ですね。今日は昼頃にモノが届くという事なので、その時間帯に店へ向かおうかと思っている所でございます。なるべく早めに設定関連を終わらせたいという思いがありますからね。来週が楽しみになってきました。

 

「買いたい物を買う」。これは長きに渡る人間の文化の中で培われた「一種の心」でもあります。

「一種の心」。それは人間が誕生して「感情」を抱いた時からスタートしているモノで、基本的には「やりたい」という精神感情の下で、人間が考えるか考えないかを別にして感情だけで行動する内面的な事象の一つ。その内面的な事象の数々が積み重なって、今日に至るわけです。その事象は新しいものが産み出される度に、名前を変え、状況を変えて「一種の心」が次々と生まれてくる、または育まれていきます。新しいものが産まれないと「一種の心」は生まれなければ育まれる事もありません。一生平坦な「心」が横に横に伸びていくだけなのです。そうすると伸び代が無くなって、「欲求」という要素が削がれていってしまう。人間は案外「欲求」によって大半を過ごしているかの様に感じます。全ての生活を「欲求」によってコントロールされ、その傘下に脳の指令を含めた「考える」という動作が働くのかもしれない。でないと「考える」という動作自体生まれないような気がしてならないです。

話が飛躍しましたが、まぁ当たり前の事をダラダラと綴っただけです。あ、散髪は渋谷の道玄坂でやってきました。横の髪の量を減らして、プラス全体的に梳いてもらいました。お陰でちょっと重かった頭がスッキリして軽い感じにね。まぁ、色々書き過ぎたので、髪の事は次回散髪した時に書きます。

気付いたら時計の針が2:00になっていたので、そろそろ寝ます。

今日もダラダラと個人的な事を呟いた次第でございます。

スマホ民

誰かが『スマホ民』っていう言葉を言い放った。

スマホに操られ、気付いたらゲームや調べ事、記事閲覧やカメラでの操作をしていて、そのどれもは基本タッチ操作でしかないもので、実際に触れる事なく知識だけが蓄えられていく。やがてそれを『経験』と錯覚し、人はその物や事を全て熟知したかの様に語り始め、『経験』を得られない薄っぺらい話だけが永遠と続いていく。

そんな話を聞いていて楽しいはずが無い。どんな人間も『触れる』事で物事を考え、結果として『経験』を積み上げていくのだから、今の時代はまさに、人間が向かおうとしている『進化』への未来を大きく逸脱している。

『進化』への未来。それは人間がこの地球(ほし)に一生を捧げるにあたって、地球という星の『進化』に伴い環境適合していく一種の手段。その手段を手早くさせる為に世間へ広く認知されたのがインターネット。そしてそれをより使い易くされたのが家庭用PC。更にそれをどの世代にも受け入れられ、『外』の世界へネットを拡張させよう、または人間を引っ張り出そうと考えられたのが『スマホ』というものであろう。

いつしか人間は『進化』する事を放棄した。それは『インターネット』の誕生によって放棄の道を辿る事になる。このインターネットはそもそも、一部の人のみが利用できるシステムにすれば良かったのだ。多くの人間が意図も簡単に操る事の出来るコンテンツにしてしまったが為に、人間は『進化』する事をいつしか放棄してしまった。それ故に簡単にインターネットを取り入れる為に『スマホ』を開発してしまった。人間は今、地球の『進化』に反比例する形で『退化』している。それは紛れもなく『インターネット』の簡素化と『スマホ』普及が大きな要因の一つと言えるのではなかろうか。

幾つかの意見はあるように思う。こんな事が正しいとだなんて思ってはいない。ただ少なからず、こんな感じに思っている人は少なからずいる訳で、簡単な話、『スマホ』を普及さえしなければ良かったのではないかという結論に至った。こんなのはただ単に私のボヤキみたいなもので、きっとこの意見と真っ向から反対する意見が早々に飛んできそうな、そんな感じがする訳です。

人間は考えるからこそ新たな『物』、『事』を生み出してきた。それは一度も『放棄』という行為をしてこなかったからこその賜物である。偶然ではない、考えるという努力が実を結んだ結果だ。しかし、現代社会は『考える』という行為そのものをネットワークで構築した新たな媒体に委ねようとしている。その中に『スマホ』は入る訳で、膨大な情報を割り出せる機械を幾ら人間が作った所で、その賞賛はやがて『ネットワークの媒体』へとすり替わって行くに違いない。まさに『スマホ民』はスマホに操作されている人間たち。それは人間が一部の『身体』として受け入れたからに他ならない。そしてこの現象こそが、人間が『進化』する為に与えられた『考える』という行為そのものを逸脱させた張本人である。『スマホ』は人間が作った負の遺産に成り兼ねないのかもしれない。

 

とまぁ、個人的な観点をボソボソと呟いた次第でございます。