世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

「存在」との「共存」

「歳を取ると無欲になる。」

 

と誰かが言っていたな

かと言って、全員が無欲になるという訳では無いんだけれど、でも少しずつ無欲になっていく。

気付いた頃には周りから置いてけぼりにされた様な、そんな妄想だけが自分の中で掻き立てられていき、それが焦燥感へと変わっていく。無欲をなくそうと必死に趣味を掻き集めてトライをしても続かない。結局脱力感だけが自分の周りに増えていって、段々と無欲だけが広がっていく。そんな日々を過ごすと、自分の事を嫌いになり、孤独へと進んでいく。気付いたらコミュニケーション能力もダウンして、人間としての面影も失っていく。「人間」という抜け殻が彷徨う様な、そんな「物体」と言えるかどうかわからない存在となってしまって、周りからは腫れ物に触れる様な扱いを受けて、身も心もその人はボロボロの紙クズとなってしまう。成れの果ては悲しき性。

「無欲」になればなるほどに人間として生きていけなくなる様な、そんな妄想をするだけして、結局解決策を見い出せないままその日を過ごしていく。

自分自身が変わらないと何も始まらないのに、その変わる事に対して自分の中で理解ができなくなってしまう。理解ができないというか、答えが見つけられないというか。判然としないままに、ただひたすらに「無」の時間を過ごしていく。

そうなってくると、一瞬の快楽に目覚める事だって起きてしまう。その一瞬の快楽の為に生きているのかと思うと、それもまた「無欲」へと誘われるかの様な、そんな気がしてきてならない。

心の行き場所を見つけないと、拠り所を見つけないと、そんな感じに決めつけてしまって、安らぐ場所を見失ってしまう。

こう考えると、無欲は精神的に疲れる事なのかもしれない。

そこの場所にはもう何もない。楽しかった記憶はあっても、無欲になってしまえばそれ以上探しても何もない。それでもまだ求め続けるというのは、誰が見ても滑稽な姿にしか見えないであろうに。

そんな事は分かっていても、長きに渡りその場所で楽しさを謳歌していた訳なのだから、記憶というものは時に残酷な道へと誘うものだ。

恐ろしいかな。そんな事に縛られて生きているんだなと、ふと客観的に見つめている訳なんだけれども、それはもう不思議なもので、分かっているはずなのにズルズルと引きずってしまう。ホント、その姿が醜い。

気持ち的にはスッキリするはずなのに、それがやめられないでいるのは非常に滑稽である。ハッキリと答えを出さない人間ほど、醜い存在はこの上ないのだから。

外見ではなく、中身の醜さは優柔不断な人間の姿である。世界共通ではなかろうか。ややこしくても、回りくどくても、少しでも答えに行き着いているのなら、それはそれで存在として認知されているだろうけれど、答えも出さずに右往左往して、結局尻尾を巻いて逃げる様な存在はむしろ、消されても同然なそんな存在である。

少し口が過ぎたのかもしれないが、でも、ここはハッキリと言っておかないと、存在として消されてしまう様な、そんな気がしてならない。

ここまで書いてきて、「存在」に対して疑問符が湧いてくるのだが、それぞれの人間が持つ「存在」は多種多様で、それは数多の星空よりも無量大数に存在する、いわゆる「コンテンツ」みたいなもので、それが「人間」という形でうまい具合に「共存」している。同じ人間でも、例えば外見、性格、考え方。多種多様な「存在」がこの世界に存在し、共存し支えあっているはずだ。しかし人間は言葉を通じて、その多種多様にある存在を数え切れる存在に絞り込んで割り振っている。しかし、その居心地の悪い「存在」を、時として人間は踏み外す事だってある。踏み外した瞬間、この国ではその存在を腫れ物扱いにしていく。コンプレックスを抱くまでにあしらったら、そいつが型に嵌るまでじっと見つめている。そうして月日が流れて型に嵌ると、何事も無かったかの様にそいつを国の中に取り入れて、歯車の中に組み込んでいく。まぁ、世界でも同じ様な事は繰り返されていて、踏み外した人間は一生日の目を見る事はない。戻ったって扱き使われるのがオチである。

結局、「存在」という大きな括りを作った事で、人間の可能性を閉ざし、窮屈な生活を余儀なくしている訳で、なんて愚かな括りなのだろうといつも思う。

「みんな違ってみんな良い」

あの言葉なんて丸っきりの嘘である。みんな良いはずがない。逃げ文句にも程がある。

そんな事を大衆に向けて共感を持たせたって、個々人では絶対に受け入れられない人物は2人や3人位いるはずである。まだ何も知らない子供に言っても同じ様なことが返ってくるだろう。何も分かっていないなりに、子供は周りの空気を察する。その察した空気を読んで「自分」を作り出していく。大人になるにつれて色んな事を知っても、それはあくまで「自分」に対しての肉付けに過ぎない。幼い子供の時に察した、あの妙な空気感で「自分」というものを構築していくのだから。勿論、それだけでは無いけれども、大抵は空気を察する環境で作られていく。
そしてそれが「存在」へと変わって「共存」する為に適応していくのだ。徐々に変わっていって、「自分」というものを失っていく。「存在」もなにがどうだったか、それが原型を留めない位に適応されてしまって、それを「共存」と呼ぶ様になってしまう。

やがて自分はその「共存」に対して疑問を抱き、そうじゃないと否定し続けて、そしてまた受け入れようとして「存在」を探し求めようとする。結局見つからずにただひたすらに日々を過ごす様になってしまい、それに疲れてきてしまう。段々と動力を失って「無欲」が生まれてきてしまう。

共存する為に楽しく過ごしていた日々が「記憶」として蘇ってきても、「無欲」が生まれたその存在には水を差す様な思いに見舞われる。余計なお世話だと感じてしまう。

段々と心の中に「無」が広がっていって、人は抜け殻になり、最期に人は、これまでの「記憶」が走馬灯の様に脳裏を過ぎっていく。抹消しようと記憶がどんどん湧き出てきて、「無欲」だった人が一瞬「存在」を現すようになっていって、やがて本物の無になってしまう。

人の内に秘めた所は、一生秘められたもので、ただその片鱗に気付く方法は、その場の空気をどの様に察しているかで決まる様な気がして。そこでその人が「無欲」かどうかも判別出来るはずで。どんどん鎌をかけていってその人がどれに対しても察しなければ、その人はいよいよ「無欲」なんだなと思えばいい。

その時にそっと手を差し伸べられれば、例え自分が「無欲な存在」だったとしても「存在」を確立出来るかもしれない。

そんなプラス思考で考えていれば、「無欲」とも共存し合えるのかもしれない。

 

ゲーム欲を失ったシロロン