世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

スマホ民

誰かが『スマホ民』っていう言葉を言い放った。

スマホに操られ、気付いたらゲームや調べ事、記事閲覧やカメラでの操作をしていて、そのどれもは基本タッチ操作でしかないもので、実際に触れる事なく知識だけが蓄えられていく。やがてそれを『経験』と錯覚し、人はその物や事を全て熟知したかの様に語り始め、『経験』を得られない薄っぺらい話だけが永遠と続いていく。

そんな話を聞いていて楽しいはずが無い。どんな人間も『触れる』事で物事を考え、結果として『経験』を積み上げていくのだから、今の時代はまさに、人間が向かおうとしている『進化』への未来を大きく逸脱している。

『進化』への未来。それは人間がこの地球(ほし)に一生を捧げるにあたって、地球という星の『進化』に伴い環境適合していく一種の手段。その手段を手早くさせる為に世間へ広く認知されたのがインターネット。そしてそれをより使い易くされたのが家庭用PC。更にそれをどの世代にも受け入れられ、『外』の世界へネットを拡張させよう、または人間を引っ張り出そうと考えられたのが『スマホ』というものであろう。

いつしか人間は『進化』する事を放棄した。それは『インターネット』の誕生によって放棄の道を辿る事になる。このインターネットはそもそも、一部の人のみが利用できるシステムにすれば良かったのだ。多くの人間が意図も簡単に操る事の出来るコンテンツにしてしまったが為に、人間は『進化』する事をいつしか放棄してしまった。それ故に簡単にインターネットを取り入れる為に『スマホ』を開発してしまった。人間は今、地球の『進化』に反比例する形で『退化』している。それは紛れもなく『インターネット』の簡素化と『スマホ』普及が大きな要因の一つと言えるのではなかろうか。

幾つかの意見はあるように思う。こんな事が正しいとだなんて思ってはいない。ただ少なからず、こんな感じに思っている人は少なからずいる訳で、簡単な話、『スマホ』を普及さえしなければ良かったのではないかという結論に至った。こんなのはただ単に私のボヤキみたいなもので、きっとこの意見と真っ向から反対する意見が早々に飛んできそうな、そんな感じがする訳です。

人間は考えるからこそ新たな『物』、『事』を生み出してきた。それは一度も『放棄』という行為をしてこなかったからこその賜物である。偶然ではない、考えるという努力が実を結んだ結果だ。しかし、現代社会は『考える』という行為そのものをネットワークで構築した新たな媒体に委ねようとしている。その中に『スマホ』は入る訳で、膨大な情報を割り出せる機械を幾ら人間が作った所で、その賞賛はやがて『ネットワークの媒体』へとすり替わって行くに違いない。まさに『スマホ民』はスマホに操作されている人間たち。それは人間が一部の『身体』として受け入れたからに他ならない。そしてこの現象こそが、人間が『進化』する為に与えられた『考える』という行為そのものを逸脱させた張本人である。『スマホ』は人間が作った負の遺産に成り兼ねないのかもしれない。

 

とまぁ、個人的な観点をボソボソと呟いた次第でございます。