世間の感触

穏やかな人が世間に向けた赤裸々な日記

物語

時間なんて関係ない。一つの尺度として時間で決める事はあっても、大方物語に対して影響力を及ぼす、一つの存在としてあってはならないものだと思っている。それは物語は長さではなく質感が大部分を占めなくては意味がないと思っているから。

よく、一人ひとりの人生を「物語」に置き換える事はしばしばあるが、まさにその人の人生を「時間」という型に当てはめて話を進めてはいけないと感じる。時間よりも質感を最も大事とする訳で、その人の生き方を知る上でとても重要な事であると感じる。
時代背景や成長の過程を話す上で時間という概念は必要になってくるものの、それを主として考えるのは些か間違いであると断定したい。

ドラマでもそう、15分ものや20分もの、1時間や2時間ものとそれぞれの質感によって時間のスケールが異なっていく。

放送時間の枠からドラマの編成を進めるテレビ局が多くあると見受けられるが、それも大方間違いな様に思えてくる。あくまでもテレビ局の都合に合わせてドラマを編成する必要は無く、それぞれのドラマによって5分刻みで考えるのではなく、1分や20秒、39分という様な感じで端数分を含めた構成・編成を組んでもいいのではないかと、ドラマを見てきてずっと思っていた。

人の人生の様に、枠組みに捕らわれないドラマ。それこそが今を生きる世代においてかなりの共感を得られる様なそんな気がしてならない。

しかしまぁ、一定の秩序というものを守らなくてはならない立場も考慮すれば、それが全てという考え方も些か間違いに等しくなってしまうのだろうと思う。

でも、一つ言いたいのは長くやればいいという考え方はもう古くて、より一層の質感を高品質に持って行き、その上で時間が追い付いてくる構成が今のドラマに当てはまっていくのではないかとさえ思えてくる。

既に実行している所もありそうだけど、わかっていてもうまく生かし切れていない所が多数見受けられる様に思う。それは、未熟だからとかそういう事ではなくて、人生の様に経験が伴っていないから起こっている事象の様に思える。経験を積む為に人の人生を見る事で一気に積み上げる事も出来るし、ドラマを見て疑似体験から積み上げる人だっているであろう。そうやって経験を積む事で生まれる「物語」は時代が色褪せても「経験」として引き継がれていくのだろうと私は感じるのである。

物語+経験=人生。こんな適当な方程式的な事を書いてみたものの、こんな感じで薄ら薄らと感じている人もいれば、既にわかっている人もいるかもしれない。いずれにせよ、そういった事が大きく関わっているのだろうと私は感じたのである。

 

 

シロロン

 

「無」そして「零」

「零」が漢字文化圏に存在をしていなかった頃、まさに「無」が「零」の役割を果たしていた。
すなわち、対象を逐一規定しない「ゼロ」としての働きを備えていたというものである。
現在はその意味を備えつつ対象の否定、「有」の対義語として存在意義が強く残っている。
しかしながら、浸透加減からすれば「無」は本来の「否定」という意味合いよりも、「ゼロ」、「何も無い」という意味合いとして後世に継承されているのが現実的と言えるのかもしれない。
前世、人は「無」に対してどの様な感情を抱いていたのだろうか。
それを導き出すには時間だけでなく、枝葉分かれる相当な意見を聞き入れる必要が出てくるのであろう。
しかし「無」は一般的に無い物としての認識、扱いとしての意味合いが強いのだから、最終的なゴール地点は似た様なものなのかもしれない。
私の考える「無」は、人間界で起こっている「身分」という惨い線引きを気にする事なく、また生命として生きるか死ぬかの鬼気迫る思いをしなくても良いというある種「気楽」な世界を短絡的に想像しているのだけれども、そうなればこういった考える事をしなくてもいいのだから、一見「つまらない」という感情や「無責任」といった感情を抱く人が出てくるかもしれないが、それが「無」という事なのだから、肯定や否定といった概念よりかは当人が好きか嫌いかの問題の方が適切ではないかと思っている。だからまぁ、私の「短絡的」に「気楽」と考えてしまった雑念自体、大きな間違いであると訂正しておいた方が良いのかもしれない。
しかし、「無」という概念は人間から見た概念であって、本質はどの様なものなのかという所では、まだまだ知らない事の方が多い気がする。寧ろ、人間の都合の良い様に定められた一定の基準にしか過ぎないのだから、今考えている事が正しいという確証は誰にも宣言できない筈だ。だからこそ、「無」に対して興味が沸きロマンを感じるのかもしれない。
先に述べた人間界の「身分」という惨い線引き、即ち「奴隷」や「捕虜」等と言った類。奴隷に至っては「運命のいたずら」という身勝手な言い訳で片付けられる事もしばしばあるのだけれども、そもそも人間が作ってしまった「身分」が管理者の行き届かない所で過激化し、「奴隷」というある種「身分」を作り出してしまったという考えを私は持ってしまっているのだけれども、その身分のせいで自由を奪われ苦しみを日常として捉えてしまっている問題を表面化すればする程に人間社会の闇を見続けていく、そんな恐怖にさえ陥る。
そして宗教的な言葉で言えば「輪廻転生」という恐ろしい言葉が独り歩きする事で、人間社会に蔓延る「身分」が私達の生まれ変わりによる自由を奪っていく。
生まれ変わりの先は選べないから、身分も選べない。そもそも、「身分」という概念が生まれてしまったのは人間が「心」を宿してしまったから。
それは、人間が過度な「知識」や「意思」、「感情」を抱いてしまったが故に、問題が表面化した所で解決に至らないというある種厄介な存在なのかもしれない。
嫌な事ばかり考えれば、そういった事になっていくのだろうと感じている。
こんな事を日夜考えるのは、その身分について事細かく調べているジャーナリストや研究者以外いないのかもしれない。そしてそれは撲滅をする為の民主主義的運動によって、アフリカ、中東諸国によって「春」を夢見て戦いを続けている事に他ならない。
そういった「希望」を持てれば、生きていく上での糧となり、原動力に繋がっていく事になるのかもしれない。しかしながら、「希望」というのは「絶望」という言葉の裏腹にしか過ぎないという事を念頭に置かなければならない。だからこそそれを如何にして現実の一部としていけるかどうかが「希望」という事になるのであろうとも感じる。
人間のことばかり言ってしまったけれども、生けるもの「生命体」として存在する限り、その一つ一つに感情というものを抱く訳なのだから、「それを尊重してくれる様な世界が実現される様、行動を共にする。」という綺麗事を並べるよりも、私は「無」になるという事の方が人間らしく、また生命体らしい在り方であると考えている。
「無」が選択できるのか、はたまた「輪廻転生」が正しい考え方だとするならば、それはランダムで、というよりも誕生の時点での「有」か「無」かの選択だったとするならば、それはもう諦めの念を抱いた方が良いのではなかろうか。
考えれば考える程に途方もないテーマだけに、ただただ時間だけが過ぎていく。
概念の本質を突けない以上、独りで考えるテーマとしてはかなり壮大な物語になっていく。恐ろしくも面白いテーマにこれ以上考える術はボクには無いし、恐らく考えがガラリと変わるという事も到底無いものであると考えている。
こんな事を真剣に考えたのは、深夜にやっていたアニメを見て、その惨い仕打ちを受ける奴隷が運命によって自由になるまでのお話で、30分の間に描かれていたその内容が只事では無いのだろうなと、淡々とテレビを見ていた訳なのです。
正直あの30分は、語り尽せないアニメの内容と、ボクの考えが交錯した30分でした。
「無」に対しての意見、もしあれば教えて頂けますか?
と最後に書き残しておきます。



シロロン

利己

他人の事を顧みない。即ち「利己的」な生き方を指すわけですが、ソーシャルネットワークの発達によって利己主義なコミュニティが形成されている様に思えてならない昨今。

それは今に始まった事では無いのかもしれないけれども、その考え方が更に強まったのが現代の社会そのものであろうと、最近考える様になってしまった。

勿論全員が該当するという事ではなく、昔と同じく極一部の人達に向けたメッセージなのであるが、その極一部という範囲が、「社会全体」から「地域全体」に縮小しつつあるという危機に直面していると言わざるを得ない。その背景にはソーシャルネットワークといったサービスの普及によるものである。分け隔てなく、そこのアカウントを取得する事で、様々な端末から自分の考えを発信できる優れもの。

そのサービスは「自分」を中心に現状を直視しつつ日々の行く末を認識できるというもの。そして実際にその場へ行かなくとも、小さく見えないコミュニティを形成し全ての人が共有できるというもの。物凄く便利で、使い方を誤らなければ作業効率が格段に上がるシステム。そのシステムを誰もが使える様に構築したのが「Twitter」や「LINE」、「Facebook」など。

これは、自分に必要な情報だけを共有して自身で設定をして運用できるシステム。だからこその「利己的」な「社会」がそこには形成されてしまう。それが形成される事で視野が狭くなり、何事も受け付けない厄介な存在が生まれてしまう。このシステムの急速な普及によって、今まで見ていた世界が大きく変わってしまった様に思える。それは今に始まった事では無く、随分と前の時に起こってしまっている、ならではの世界である。

噂話が過ぎると人はそれを正として動く一方で、それを偽として動くものも多少たりともいる訳です。そしてそれを最終的に当人から話を聞き出して答えを導き出す。これは一つの社会で起きる光景で、この仕組みが出来上がった頃というのはきっともって人類が集団的な生活をし始めてから起こった事ではないかと思う訳です。それがソーシャルネットワークの世界では、様々な人種と人間が混在する箱の中で繰り広げられていく。
先に上げた「噂話の社会」では、ある一定の限られた人間同士に繰り広げられる物語で、登場人物も少ない事が特徴であったりしますが、ソーシャルネットワークの場合は数多くの登場人物が可能性として挙げられていき、物語という括りも「日記」というものから「長編小説」という大きな括りに変化をしてしまう。様々な脚色が付けられて、当初の噂話から一夜にして壮大な物語へと変貌する。「夢物語」が後々で取り返しのつかない事態へと発展する。それは、自分の噂話が重箱の隅を楊枝でほじくる様な事態になっている訳ですから、それを解消するのに一生分の時間を費やす羽目になる訳です。いや、一生を懸けてもここまでの事象を正すという事は到底厳しいものであろうと思う訳です。

そんな状態が容易に想像できるシステムな訳ですから、自然と「利己的」に変わって行ってしまうのは自然な事なのでしょう。そうでもしないと「自己防衛」が成り立たない訳なんですから。

最初に挙げた「利己主義社会」について、もはやこれというのは人間である以上どうしようもない事なんじゃないかって結論付けてしまうのが本当に情けないなと思う訳です。正直な所、一定のルールを決めたとしても直ぐに沸いて出てきてしまう。そしてそれを無視する事で、一定のルールを掻い潜って新たな社会を形成していく。もはやイタチごっこの様なその光景は、溜息が吐き切れないほどに起こっている事なんだと痛感する訳です。
この利己主義の塊を情報収集手段の一つとして全世界が捉えつつある現状に危機を持たなくてはならない。それはこの塊をいよいよ優先順位第一位として運用した国が現れたとすれば、それは利己主義で固められた塊同士の争いが待ち構えているから。そしてそれは後世に「負の遺産」として引き継ぐ羽目になるという事。そうなれば世界も破滅の道を歩みざるを得なくなってしまう。

きっとこのシステムも「利他」を重点に、それを気軽に共有できるシステムとして運用を開始したんだろうけれども、人間が人間の本質を突き止めていない、不完全な状態で世に放ったのだから、「利己」の塊に変貌したとしてもしょうがないと言わざるを得ない訳です。

きっともってこの事は誰もがどこかで思っている事なんだろうなと、徒然なるままに認めた次第であります。


シロロン

極端

極端に考える事をやめようと思っても、人間どこかで極端に考えないと気が済まない事だってある訳なんですよ。

それを無理矢理極端ではない考え方に切り替えてしまったら、その人は途端に自分を失う事になるでしょうね。だってそれを崇拝して生きて来たのだから。

だから極端な人っていうのは、幾ら否定をされたとしてもそれを信じる事に生き甲斐を感じているから、否定されただけでフンともスンとも言わない。

それを分かっていて崇拝しているのだから。

でも例外はある。それは極端な人と極端な人のぶつかり合い。これはとても厄介で、もはや両者にきちんとした理由付けがあって、そのぶつかり合いな訳だから一般人が介入する事さえ許されない事象である。

まぁそういうのっていうのは大抵、極端に考え過ぎた結果、話が飛躍し過ぎて収集が付かなくなっている事でもある。だから両者の余熱が冷めない事には解決のしようがないという事にもなる。

人間は生きていればどちらかに必ず偏ってしまう。偏って生きる事で安心感を得る事も出来る。それは決して怖い事でも駄目な事でもない。当たり前の事で、それぞれが生きている事で人間の社会が構築され、それを永続的に管理する事が出来る。中立的な立場にいる人も、介入していないからこそその問題や事象に偏らずに済んでいるのかもしれなくて、他の問題や事象に切り替われば、その人もまた極端な人に変貌する。それは自然の摂理みたいなもので、それを正しいと判断して生きていく上で重要な働きをしていく訳です。もちろん、間違いと判断した事もやがては極端な人間の終着点に行き着く訳です。

だからその分野が政治や理想などといった、人間が必ず関与する重大的かつ明瞭な分野に自分の考えが顕れた時、その人の真価が問われる。大抵の人間はどちらかに偏っている。話し方、素振り、表情などなど。

しかし、稀に中立的な立場に立てる人が長くその分野に携われる事もある。

時の風を見定めて変貌する人もいるかもしれない。でもそれは必ず襤褸が出てくる。必ず壁にぶち当たり、潮時というものを迎えてしまう。実に人間らしい生き方の様に思える。賢いというか、人間らしい生き方である。

しかし、それとはまた別に、どのタイミング、いかなる時でも、中立的かつ明瞭な意見が言える人。そういった人は一般人だろうが極端な人達だろうが関係なしに支持を受けて地位を確立出来る。

もはやそういう人は神様に近い存在なのかもしれない。

そんな者がこの世界に現れたとすれば、もはや人間は凡ゆるメディアを放棄し、凡ゆる考えをも放棄して、その人の言う事だけを信じきって生きていく事を選択するであろう。自分が自分で在り続ける為に、皆その存在に縋り運命共同体と化すのであろう。

しかし、そういった中立的な立場でいられる人間というのは、どこか怖いものがあって、生物的な動きをしていない様な気がしてならない。いつもにこやかに、そして全ての意見を受け入れてそれに対しての答えを導き、他者との争いが起きない助言を残していく存在。そんな者は生物ではない、人間の都合によって生まれた神様みたいな存在であろう。人間は人間でなくなり自分を失う。そんな存在に操られるというよりかは、人間らしく生きる事を皆が忘れて、同じ「動物」として生き始める事を決意した者たち。野生の動物よりも下の「動物」。感じたり考えたりする事を放棄した「動物」。一昔前のコンピューターみたいな動きと似ているのかもしれない。

 

『そんな生き物が近い将来「人間」が担う事になろうとは想像もしないはずである。』

 

AIという存在が人間を脅かす恐怖。計算通りにこの「世界」が動いているのだとすれば、それはAIにも管理、処理が出来る世界という事の結論付けにもなりうる。果たしてそれが誠か否か。

 

これはあくまでも自分の考えであって、それが現実味を帯びるという確証は未だ得られていない訳です。これは一種の極端な考え方であって、他の人も思っているでしょうけど、一方でそれを否定する人だっている。それが結果「AIに支配される世界」を回避するかどうかに繋がれば事は収まる訳です。勿論、支配されてもされなくても、「人間」が考えた事に結論が付けられれば一般人も極端な人も一安心する様になる訳です。

これが人間の在り方であり、生物としての生き方でもある。感情と意思、知識を身に付けた生物は、必ず考えが偏るもので、それを忘れてしまった頃には、「神様」の様な存在が「世界」を掌握する様になってしまう。その事が沸々と近寄っている今だからこそ、自分が様々な分野に対して意欲を持ち、意見を放つ事。それは「人間」の生き方に通ずるものがあり、極端な考え方こそが「世界を救う」鍵になるのかもしれません。と僕は考えている訳です。

 

とまぁ、この辺で書き込むのを終わりにします。

 

 

シロロン

 

綻び

自分の家族は、きっと型にハマる事ない家族なんだなって小さい頃から思っていた。

だから、家族をテーマにしたドラマとか、そういうシーンが幾つかあるドラマを見ていると、恥ずかしいという感情を抱く事は決して無かったし、共感する事も無かった様に思える。

きっとそれは僕が『家族』を『他人』として見ていたから、そういう事を感じてしまっていたんだと思う。

 

幼稚園から小学校、中学校、高校と上がって、専門学校へと進学した後、就職をして今に至るまで、様々な場面があった訳だけれども、一つ一つを節目として考えるのであれば、どの場面でも一度『家族』に関して真剣に考えていた頃はあった様に思える。

幼稚園や小学校低学年は、振り返ってみて感じた事の方が多いけど、その場面場面で家族が距離を徐々に置き始めていった。

血の繋がりがあっても、成長していくとどこか素っ気ない態度を取る様になってしまって、気付いたら他人の振りをしている、そんな感じが広がっている。

勿論、血の繋がりが全くない父に対しては、もとより素っ気ない態度を取ってはいるが。

それは、自分から始まった事であろうと思う。

父と母の綻びが徐々に見え始めてきた頃、その頃から

「素っ気ない態度をココでも取っていいのかもしれない」

と察知して、もう相手の顔色を伺わなくたって良いんだと、何だか重荷を降ろした気分になって、すぅっと開放感に満ち溢れるというそんな気分になっていた。

それまでは、母親の顔色を伺って、偶に父の顔色を見たり見なかったり。それぞれの気持ちを探りまくる様な毎日もあった様に思える。言葉にしない時なんかは一番厄介で、気が重くなっていた。

でも綻びが見え始めた頃からは、一切合切興味を無くして、気にしない様に勤めてきた。そしたら、気付いた頃には父の方からフェードアウトしていって、気づいた頃にはそれが当たり前の風景となってしまっていた。母も気にはしていない。でも、集合写真は壁に貼ってある。忘れているのか、どうなのかは知らない。そこまで探る様な事でも無いように思えるし、壊れてしまう位なら聞かない方がマシだ。

あんなに会話していたのに、いつの日か、いや、そんないつの日かと誤魔化す事は出来ない。きっとあの日を境に家族は一変したし、それを気に父の本当の姿を見た様な気がする。

父は母に対して「いい加減病院へ行こう」と声掛けはしていた。でも悪化し続けている母を父は、無理矢理でも救急車を呼んで連れて行こうとはしなかった。自分もその時は高校生で、悪化し続ける母を見て母の意思を聞きながら救急車を呼ぼうか呼ばまいか迷い続けて、母の姿を見ているとこのままが良いんじゃないかという葛藤もありつつ、結局あの日を迎えてしまった。振り返れば、家族皆、母を蔑ろにしていたのは紛れもない事実である。

ある時から始まった綻びに気付いておきながら、対岸の火事の様に眺めてしまった挙句、母の容態悪化に早急な対応が出来ず狼狽える。何の為に勉強し、何の為に情報を得て、何の為に生きてきたのか。あの時の情けなさは今でも忘れられない。

『家族』が『家族』で在り続ける事なんて、そんなの誰にも分からない。いつ何時壊れるかもしれない、綻びだらけの集団に『在り続ける』未来などあるものなのか。最近はその綻びをモノともしない家族の在り方が具現化してきている。「愛に定義などない」。そう言わんばかりの在り方が示されてきている。

 

現在、世間での『家族』の在り方が一段と変わってきていて、例えば子供を持つという家庭の在り方も徐々に変わってきている。

父母(男女)の家庭ではなくて、父母(男男または女女)の家庭が徐々に増えてきている。

でも、この国でそれが当たり前になるという事は当面無いんだろうなって勝手に思っている。それは遠い未来の話かも知れないってどっかで感じてしまっている。これだけ他人との交流が身近になっていたとしても、この国ではそれを受け入れるのに相当な時間がかかるんだろうなって思っている。

「愛に定義はない」だなんて事を当たり前の様に綴ったけれども、結局の所「愛」とはなんなのか。深く考えれば考える程に分からなくなってきているのが現状で、きっとここまで真剣に考える人の方が少ないんじゃないかって思ってる。むしろ感じる事が重要なんだろうけど、感じた愛を育んで最後まで一緒にいられるケースの方がきっと少ない様な気がする。熟年離婚が多い中で、親の愛というのは果たしてきちんとした愛なのかどうか、非常に怪しい所が幾つかあるから信用出来ない部分が沢山ある。勿論、個人差は幾らでもあるから、一概に言えないのが「愛」の嫌な所でもある。

 

結局の所、「愛」が「家族」を育むという結論が分かっても、『家族の在り方』については知らない事が山程ある事に気付いた様な気がする。どの方向に向かうかとかそういう事ではなくて、「愛しあって育まれた家族」が今後どの様に在り続けて行くべきなのかという模範解答的な事は一向に見つからないという点において、知らない事が山の様にある訳です。

きっと模範解答的なことは幾つかある様な気もするけど、今の自分には見つからない様な、そんな気がしてならない訳です。

 

今、綻びが剥き出しになり続けている僕の家族は、修繕不可能かもしれないけど、「在り方」だけでも決めておきたいという節は感じておる訳です。

 

 

シロロン

「存在」との「共存」

「歳を取ると無欲になる。」

 

と誰かが言っていたな

かと言って、全員が無欲になるという訳では無いんだけれど、でも少しずつ無欲になっていく。

気付いた頃には周りから置いてけぼりにされた様な、そんな妄想だけが自分の中で掻き立てられていき、それが焦燥感へと変わっていく。無欲をなくそうと必死に趣味を掻き集めてトライをしても続かない。結局脱力感だけが自分の周りに増えていって、段々と無欲だけが広がっていく。そんな日々を過ごすと、自分の事を嫌いになり、孤独へと進んでいく。気付いたらコミュニケーション能力もダウンして、人間としての面影も失っていく。「人間」という抜け殻が彷徨う様な、そんな「物体」と言えるかどうかわからない存在となってしまって、周りからは腫れ物に触れる様な扱いを受けて、身も心もその人はボロボロの紙クズとなってしまう。成れの果ては悲しき性。

「無欲」になればなるほどに人間として生きていけなくなる様な、そんな妄想をするだけして、結局解決策を見い出せないままその日を過ごしていく。

自分自身が変わらないと何も始まらないのに、その変わる事に対して自分の中で理解ができなくなってしまう。理解ができないというか、答えが見つけられないというか。判然としないままに、ただひたすらに「無」の時間を過ごしていく。

そうなってくると、一瞬の快楽に目覚める事だって起きてしまう。その一瞬の快楽の為に生きているのかと思うと、それもまた「無欲」へと誘われるかの様な、そんな気がしてきてならない。

心の行き場所を見つけないと、拠り所を見つけないと、そんな感じに決めつけてしまって、安らぐ場所を見失ってしまう。

こう考えると、無欲は精神的に疲れる事なのかもしれない。

そこの場所にはもう何もない。楽しかった記憶はあっても、無欲になってしまえばそれ以上探しても何もない。それでもまだ求め続けるというのは、誰が見ても滑稽な姿にしか見えないであろうに。

そんな事は分かっていても、長きに渡りその場所で楽しさを謳歌していた訳なのだから、記憶というものは時に残酷な道へと誘うものだ。

恐ろしいかな。そんな事に縛られて生きているんだなと、ふと客観的に見つめている訳なんだけれども、それはもう不思議なもので、分かっているはずなのにズルズルと引きずってしまう。ホント、その姿が醜い。

気持ち的にはスッキリするはずなのに、それがやめられないでいるのは非常に滑稽である。ハッキリと答えを出さない人間ほど、醜い存在はこの上ないのだから。

外見ではなく、中身の醜さは優柔不断な人間の姿である。世界共通ではなかろうか。ややこしくても、回りくどくても、少しでも答えに行き着いているのなら、それはそれで存在として認知されているだろうけれど、答えも出さずに右往左往して、結局尻尾を巻いて逃げる様な存在はむしろ、消されても同然なそんな存在である。

少し口が過ぎたのかもしれないが、でも、ここはハッキリと言っておかないと、存在として消されてしまう様な、そんな気がしてならない。

ここまで書いてきて、「存在」に対して疑問符が湧いてくるのだが、それぞれの人間が持つ「存在」は多種多様で、それは数多の星空よりも無量大数に存在する、いわゆる「コンテンツ」みたいなもので、それが「人間」という形でうまい具合に「共存」している。同じ人間でも、例えば外見、性格、考え方。多種多様な「存在」がこの世界に存在し、共存し支えあっているはずだ。しかし人間は言葉を通じて、その多種多様にある存在を数え切れる存在に絞り込んで割り振っている。しかし、その居心地の悪い「存在」を、時として人間は踏み外す事だってある。踏み外した瞬間、この国ではその存在を腫れ物扱いにしていく。コンプレックスを抱くまでにあしらったら、そいつが型に嵌るまでじっと見つめている。そうして月日が流れて型に嵌ると、何事も無かったかの様にそいつを国の中に取り入れて、歯車の中に組み込んでいく。まぁ、世界でも同じ様な事は繰り返されていて、踏み外した人間は一生日の目を見る事はない。戻ったって扱き使われるのがオチである。

結局、「存在」という大きな括りを作った事で、人間の可能性を閉ざし、窮屈な生活を余儀なくしている訳で、なんて愚かな括りなのだろうといつも思う。

「みんな違ってみんな良い」

あの言葉なんて丸っきりの嘘である。みんな良いはずがない。逃げ文句にも程がある。

そんな事を大衆に向けて共感を持たせたって、個々人では絶対に受け入れられない人物は2人や3人位いるはずである。まだ何も知らない子供に言っても同じ様なことが返ってくるだろう。何も分かっていないなりに、子供は周りの空気を察する。その察した空気を読んで「自分」を作り出していく。大人になるにつれて色んな事を知っても、それはあくまで「自分」に対しての肉付けに過ぎない。幼い子供の時に察した、あの妙な空気感で「自分」というものを構築していくのだから。勿論、それだけでは無いけれども、大抵は空気を察する環境で作られていく。
そしてそれが「存在」へと変わって「共存」する為に適応していくのだ。徐々に変わっていって、「自分」というものを失っていく。「存在」もなにがどうだったか、それが原型を留めない位に適応されてしまって、それを「共存」と呼ぶ様になってしまう。

やがて自分はその「共存」に対して疑問を抱き、そうじゃないと否定し続けて、そしてまた受け入れようとして「存在」を探し求めようとする。結局見つからずにただひたすらに日々を過ごす様になってしまい、それに疲れてきてしまう。段々と動力を失って「無欲」が生まれてきてしまう。

共存する為に楽しく過ごしていた日々が「記憶」として蘇ってきても、「無欲」が生まれたその存在には水を差す様な思いに見舞われる。余計なお世話だと感じてしまう。

段々と心の中に「無」が広がっていって、人は抜け殻になり、最期に人は、これまでの「記憶」が走馬灯の様に脳裏を過ぎっていく。抹消しようと記憶がどんどん湧き出てきて、「無欲」だった人が一瞬「存在」を現すようになっていって、やがて本物の無になってしまう。

人の内に秘めた所は、一生秘められたもので、ただその片鱗に気付く方法は、その場の空気をどの様に察しているかで決まる様な気がして。そこでその人が「無欲」かどうかも判別出来るはずで。どんどん鎌をかけていってその人がどれに対しても察しなければ、その人はいよいよ「無欲」なんだなと思えばいい。

その時にそっと手を差し伸べられれば、例え自分が「無欲な存在」だったとしても「存在」を確立出来るかもしれない。

そんなプラス思考で考えていれば、「無欲」とも共存し合えるのかもしれない。

 

ゲーム欲を失ったシロロン

時代の追体験

日が沈む方角に、日本は目を背けてはならない。

機嫌取りで日が昇る方角だけ目を向けて、気付けば「陰」に対して背を向けている。

あくまでも、日本を主軸に見た時の表現だが、中韓露、所謂、「極東」に対して、日本は目を背けている様なそんな気がした。

 

多くを知っている訳では無いけれど、かつて北海道の管轄であった樺太に数多の戦士が駐屯していた。戦後も引き返す事無く、むしろ現地は戦火が激しさを増していた。

引き返したくても引き返せない状況だった。

 

血涙を流した戦士が、樺太の地で最後を迎えた。

 

追体験をしようとしても、当時の激化してた頃をそう簡単に自分の体験として刻み込む事は到底出来ない。

爆撃の音、銃撃戦、眼下に広がる色を失った世界。恐ろしき世界。

樺太のみならず、沖縄地上戦、東南アジアの諸国の激戦、祖国や遠い異国で命を落とした戦士の追体験は、決して容易く紡げる物では無ない。

しかし、私たちはそういった数々の事実を、写真や音声、映像として記憶に刻み込み、持てる想像力を最大限活かして、継ぎ接ぎの追体験をしていくのだ。

知識や経験を蓄えても、想像力を養い、育てても、当時の事実を細部まで追体験する事は、もはや超人でさえも成し得ない所業であろうと思う。

それでも私たちは追体験をしていく必要があるのだろうと思う。

意識の持ち方に変化を齎し、それが行動へ移った時、次世代の継承という形で実現していく訳なのだから。

今も尚、当時の資料や写真が続々と出る中で、自分の描く世界観が徐々に変化をしだしている。今と昔、環境は違えど同じ考え、気持ちを持つ何ら変わり無い人々の姿が、その時代には存在していた。次世代への継承に於いて、ここの部分が実に重要な意味合いを持つか、それによって次世代が感じる「戦争」への見方が変わってくるに違いない。

 

あと1年で「平成」が歴史となり、「昭和」が近現代から近代へと移り変わってゆく。

そして、「昭和」という時代が「戦前」「戦後」という分け方から一色たんの意味合いへと変化してしまうんではなかろうか。それこそが、「記憶」に於ける風化と齟齬で、次世代の「昭和価値観」を大いに狂わせる。。

今はならないにしても、いつの日か「昭和」が完全な「歴史」へと変化した時に、どれだけの人が追体験を元に語れるか、その真価が問われる。